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2010年5月25日 (火)

フィギュアスケートの伊藤みどりが堤義明から経済的援助を受けた経緯

フィギュアスケートの伊藤みどりさんが現役選手時代、西武鉄道グループのオーナーの堤義明氏から経済的援助を受けていました。
伊藤さんを育てた山田満知子コーチが、同郷出身の知人を通じて堤氏に援助を頼んだそうです。

伊藤さんが現役引退後に地元新聞に掲載された記事でその経緯が紹介されていたので以下に引用します。


中日新聞1995.5.15 運動面 P19
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スポーツの戦後50年 地方の時代
「時代の疾走者たち」
それでもジャンプ 伊藤みどり(3)
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 フィギュアスケートを習うのは、裕福な家庭の子と決まっていた。コーチへの謝礼、コスチュームやリンクの使用料、能力があれば海外遠征。
 ところが、伊藤みどりにとっては能力以前の問題が立ちはだかった。スケートに夢中になる、ちょうどそのころ(小学1年)両親が離婚し母と三人の兄妹の生活は楽なものではなかった。
 「私は小さい時だから何も覚えていない」
 質問に対する答えは多くはない。オブラートに包んだ次の言葉で我慢するしかない。

■スケートなければ…

 「自分でもよく分からないけど、好きなスケートという打ち込めるものがあってよかった。スケートがなかったら道を踏み外していたかも」
 能力がなければよかった。だが、神様はこの小さな少女に二人とない天分を与えた。どうやってスケートを続けていけたのか。
 オーバスドルフ(旧西ドイツ)の世界ジュニア(1981年)から帰国の途につきながら、山田満知子=(当時三八)=は落差の大きい内なる二つの声に悩んでいた。「経済的に果たして……」「こんな才能を持った子供はそんなにいない。なんとかできないか」と。


■遠征費ねん出に奔走

 小塚嗣彦(48)の記憶では、名古屋・大須のリンクを訪れたのは1982年3月ごろだ。名古屋市出身で、全日本3連覇の人である。うわさのみどり、12歳の練習を見た。
 「たぐいまれな才能に驚いた。あんな田舎娘が、というさめた声も聞いていたが、とんでもないとあらためて思った」
 小塚を呼んだのは山田だった。初めて世界ジュニア(80年、カナダ・ロンドン)に遠征する時、所属する中日クラブが「選手は二十万円、コーチは実費自己負担。多額の費用を要する。1口五百円を目安に協力を」とカンパを呼び掛けた。だから、クラブの父母にこれ以上迷惑はかけられない、もうやめさせるべきか、とまで考え込んでいた。
 連盟副会長の久永勝一郎が、当時の事情を思い出した。「連盟会長だった竹田恒徳さん(故人)が、中部財界に支援してもらえないかと語ったこともあった」。八一年の世界ジュニアの後である。それも、伊藤の天分を生かすための悩みであり、方策だった。
 思いあぐねて、山田は知人でプリンスホテルに勤める小塚に相談したのである。
 「会社で面倒を見てもらえないか、社長(堤義明)に頼んでほしい」。山田がそうしたのは「たとえみどりが私の手から離れても、スケートの環境が整っているから」と思ったからだ。
 みどりの天分に押されるようにして、小塚は、いろんな記事をスクラップして、その日に備えた。大須で見てから八ヵ月たった秋、ホッケーの日本リーグ観戦で東京・品川のスケート場に現れたところをつかまえた。

■育てる道に新たな声

 「実は名古屋の選手のことで……」。堤はスクラップにじーっと目を通しながら「こんな小さな子に何かあったら、だれが責任を取るんだ」。小塚は背中をじわっと冷や汗が流れたのを今でも覚えている。
 「そんなすごい選手ならスケート界の損失だな」。ぼそっと。それは承諾の返事だった。
 難関は乗り越えた。だが、天分を育てる道に新たな声が上がった。翌八三年一月、箱根の日本スケート連盟のフィギュア委員会。
 「跳べても表現力がない。山田じゃ駄目だから東京に呼んだらどうだ。それとも海外でいいコーチをつけて修行を」。日本のみどりだからという声が大勢を占めるかにみえた。
 山田と同じ東海フィギュアスケーティングクラブの理事長・沢田一也=当時(30)=が反論に立った。「いろんな声があっても二人の関係は切り離せない。伊藤は環境の変化にはついていけない。今の状態が一番いい」。
 フィギュアの練習は早朝か深夜が多い。山田は自宅に寝泊まりさせるようにした。「素晴らしい素質を持った子が後悔しないため」。そんな思いだった。みどりが中学二年になると自宅に引き取った。夫・宏樹は「自分の仕事にそんなに必死になるなら」と受け入れた。一人娘の美樹子はすぐにみどりと打ち解けてくれた。

■師弟を超えたきずな

 高校二年の時、再び東京での練習や、海外留学の話が持ち上がったが、今度はみどり自身が選択した。
 「名古屋でやります」
 山田がみどりのすべてを見ていたように、みどりも山田を見ていた。先生が「あんな教え方ではすぐに壊れてしまう。あれじゃ規定も上達しない」などの中傷に耐えていたことも。
 二人が同じような考えになるのも不思議ではない。次の言葉は、山田か、みどりか。
 「体形も違うみどりが、外国人の物まねをしてもしょせんは物まね……。失うものはないのだから、名古屋で手作りのメードインジャパンを。みどりしかできないものを」

=敬称略


《記事の補足説明》
小塚嗣彦氏(1946年11月生)は、愛知県スケート連盟創設者の小塚光彦氏の長男。1966年~1968年全日本フィギュアスケート選手権優勝。1968年グルノーブルオリンピック代表。長男は2010年バンクーバーオリンピック代表の小塚崇彦選手。
名古屋出身で、東京の早稲田大学に進学。早稲田大学スケート部時代から先輩である西武鉄道グループオーナーの堤義明氏(1934年生)に世話になり、大学卒業後は西武鉄道グループの国土計画の人事部に就職。1982年当時はプリンスホテルのアイスショー「ビバ!アイスワールド」の企画に携わる。
山田満知子コーチ(1943年6月生)は光彦氏の勧誘で7歳からスケートを始める。名古屋の大学卒業後、アイスホッケー選手だった幼馴染と結婚。大学時代からスケートコーチを始め、長女(みどりと同い年)出産後も仕事を続ける。伊藤みどりの才能を見出し、中学生の頃から本格的に自宅に下宿させる。

山田コーチと小塚氏が古くからの知り合いだったこと、一方が名古屋、一方が東京に居たことが、田舎の天才少女と世界一の資産家と言われた実業家を結びつけることとなる。ひいては日本の、世界のフィギュアスケートの流れを変えることとなる。人脈って大事だね。
>「こんな小さな子に何かあったら、だれが責任を取るんだ」。
>「そんなすごい選手ならスケート界の損失だな」。
短い言葉ながら、深い。

 みどりさんを田舎娘と馬鹿にしていたのに、経済的後ろ盾ができたら、東京や海外のコーチを付けろと口出しする当時のスケ連にはイラつくな。選手にとってコーチとの信頼関係は命綱だよ。

 その後、小塚嗣彦氏は1987年に再オープンした蒲郡プリンスホテルの支配人として愛知県に転勤する。1989年、長男の崇彦誕生。ひとり息子にフィギュアスケートを教えたり、日本スケート連盟の役員になったりで再びスケートに深くかかわっていく。

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